習慣化、あるいは、行動のルールないし理解可能性の構造

習慣とはパース(S.Peirce)のいうように「行動のルール」にほかならない。ルールに従うということは、私の行動が理解可能性の構造をそなえることを意味する(反対に、ルールのないデタラメな振る舞いは理解できない)。かたわらで私の振る舞いを見る家族の者が私が何をしているかを理解することができるのも、習慣に具わる一般的構造のおかげである。換言すれば、私のすべての振る舞いは「意味」という一般性で満たされている。
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 パースは、私たちの習慣が状況と齟齬したり破綻したりしたとき、私たちは〈疑念〉(doubt)と彼がいう存在様態に陥るのだとした。それは心が平静を失いいらいらした苦患の状態である。こうした状態を克服するために私たちは新しい習慣の形成を目指して努力せざるを得ない。〈疑念〉から〈信念〉への知的プロセスを彼は〈探求〉(inquiry)と呼んだ。
from
http://plaza27.mbn.or.jp/~homosignificans/habit.htm

  • だから、ある朝突然、食卓でトーストに歯磨き*1を塗って食べ始めるのは家族に対して失礼にあたる。しかし、それが習慣化すれば問題ない(のか?)。
  • 仮説1:パース*2の著述はインターネットに向いている。
  • 仮説2:「自然が習慣化する」とはヒトが自然に法則性を見出すことである。

*1:特にアクアフレッシュ: http://www.aquafresh.jp/

*2:http://www.peirce.org/