「世間」の問う「責任」 --柄谷行人、その可能性の中心 #8

ossa2004-06-03

子供がやったことになぜ親が「責任」をとるのか。その場合、誰に対する責任なのか。それは「世間」といったものに対してです。罪を犯した子供はそれなりに処罰されますし、その親もそのことで十分に苦しみ、罰を受ける。被害者の親が怒りを禁じ得ないというのはわかりますが、なぜ「世間」が--具体的にはジャーナリズムが--、その怒りを代弁するのでしょうか。もしその結果として、非難攻撃された親が自殺したとして、そのことに「世間」は責任をとるのでしょうか。
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倫理21(ISBN:4582702244)

少年少女の犯罪が起こると、テレビや新聞は競ってそれを採り上げる。多くのコメンテータが枠を埋めるために雇われるが、彼らが常に「原因」を知っているわけではない。
人間の凶暴性については、科学的な解明はいまだなされておらず、それを飼い馴らして完全になだめることは出来ない。
大人ですら人を殺すのだ。子供たちだって人を殺すことはある。
子供がなぜ人を殺すのか、それは人間の凶暴性に由来するいまだ解かれぬ謎であって、分からないことについては人は沈黙しなければならない。
ただ残念なことに、商業メディアには黙っていることは出来ない。
なぜか日本では分からないときには親が「世間」から責められる。
柄谷さんが書いている通り、戦後の日本では子供が犯罪を犯すと親が責められて蒸発したり、はては自殺したりする例が多い。アメリカや韓国ではこのような事態は想像すら難しいようだ。もしかすると、今の日本は親子関係に過剰に反応しているのかも知れない。今回も同じ不幸が繰り返されないよう、願う。